- 死ぬのがこわい
- 「現世まじできつい」と思ってる
- 悟りの境地に達したい
- 哲学したい
今回はこのような方に向けた記事になります。
当記事が解決するお悩み
【生への執着とは】執着は言い換えると「欲求」なのではないのか
僕が物心ついた時から何よりもこわいと思っているのが「死ぬこと」です。
正確には、「怖いと思っていたこと」なのかもしれません。
そもそも死ぬのが怖くないという人はいないと思います。いるとすれば、生きることが何たるかを一度も思考したことがなく、或いは、また、死ぬことが何たるかを思考したこともない人です。
僕は本気で死ぬのが怖くて仕方ありませんでした。
高校生の頃は、咳が出るだけで肺のレントゲンを取っていましたし、今では2ヶ月に1度血液検査をしています。それほどまでに臆病で、というか、死ぬのが怖いと思っていた理由はまさに「生への執着」からでした。
「生への執着」とは【存在と認知】
生への執着。
つまり生きることへの執着ってなんなのか。2020年は例年以上に考えるきっかけがありました。そうした中で出た今の僕の答えは「存在と認知」です。
自分が自分の認知する世界に存在しているということ、或いは、存在していたいという欲求。
これが「生への執着」なのではないかと結論付けました。
そもそも外部を認知していなければ精神世界のみで存在していることになります。それって別に物理的に存在している必要はないですよね。
たまに考えるんです。
僕はただの脳みそ
僕っていうのは実は、ただの脳みそで、今見ている景色もパソコンに触れている感覚も、誰かに創出されている、ただのイメージなのではないか、と。
そもそも宇宙の存在って、悪魔の証明みたいなものですよね。
だってこの宇宙が存在すると言える人って、宇宙の外側の人だけじゃないですか。僕が存在することを証明できるのって、僕じゃない他人だけじゃないですか。
人の認知って、信用ならないと思うんです。
でも僕らは、少なくとも僕は、その認知の中に存在するこの世界に存在する自分というものが、消えてほしくないと願っているんです。これが先ほども言った生への執着なのではないかと思うんですね。
なぜ「存在したい」という欲求が芽生えるのか
これが人が「死にたくない」と思う根源かと思うのですが、そもそもなぜ我々って、存在したいんですかね。
それってやっぱり、存在していないと認知できないからであって、つまりじゃあ、もう答えは出ているわけですよ。人は認知したいんですよ。
認知できないこと、できなくなることが怖いんです。
我々は「生きたい」とか「死にたくない」と思っているわけではなく、「認知したい」と思っているということなんじゃないでしょうか。
認知するということは、見聞き、触れ、感じ、知るということです。
これを司るのが我々の身体なわけですよね。故に、身体が消えてほしくない。死にたくない。認知するための道具として、物理的に存在する必要があるんです。
これが第一の執着だと思うんです。
誰にでもある執着。つまりは欲求です。
それ以外にも僕らは執着している物事があります。
- 金
- 人間
- 快楽
またこれらも欲求ですよね。じゃあどんな欲求なのか。大抵が承認欲求だと、僕は考えています。
承認欲求とは、すなわち「存在」を承認してもらうこと
最近やたらと承認欲求という言葉を聞きます。しかもネガティブなニュアンスで。
でもよくよく考えてください。
我々の生を証明できるのは外部の存在なんです。じゃあ、外部に自分の存在(生)を認めてもらいたいと願うのは普通のことじゃないですか。
「承認欲求=目立ちたがり」というニュアンスのみで取り扱っている人間も、また、自分の存在を認めてもらうために口を開いているということです。
その承認をもらう為には人間関係が必要になります。
だから人は人に対して自分の存在を認めてもらえるようなことをします。学校に入ったり、結婚したり、SNSをやったり。
で、なんなのかと言えば、存在が認められる以上に求めるものがなくなると人は死ぬことが怖くなくなるということです。
原初的な欲求以外に価値を見出せなくなると死ぬのも怖くない
最近思うんですよね。
そもそも人間の原初的な欲求ってなんなのか、と。
今の僕が出す答えとしては「知ること」なんですよね。だって考えてもみれば、生まれてすぐに「ブルガリ欲しい」と言う人いないですよね。
でも目の前にある物体がなんなのか知りたい人間はいると思うんです。
それでそれを表現するものはなんなのか、と。
で、母親なり父親なりという存在や概念、若しくは観念を認めるわけです。
親だって考えれば考えるほど、「観念的なもの」なのではないかというある種の妄想が湧いて出てくるんです。
元来、人は知るために生きている
生きるために知るわけじゃないと思うんです。
知る為に生きてるだけなんだ、と。生きる為に生きるほどに人間というのは偉大なものではないような気がしています。分かりませんが。
で、僕らは実は知っているんですよね。全てを知り得ないことを。
なので半ば惰性なわけです、人生というのは。
その惰性の中で生まれる欲求が、僕らを愉快にし、また同時に不愉快にするんです。
誰が金持ちだとか、誰がモテるとか、誰が云々と暇なことを、惰性でやってるわけです。
そういった惰性から目を覚ました時に、
あれ。なんかこれ、死ぬことって別に悪くないんじゃね。
と思い始めるということなんじゃないでしょうか。
というのも、僕、最近、もう死んでもいいと思ってるんです。
はっきり言いますが、死にたいわけじゃないんです。というか、前向きに、積極的に生きていたいんです。でも別に「死んだからといってなんだろう」って思うようになっているんです。
認知が終わるだけなんですよ。
人は所詮、認知に始まり、認知に終わる生き物なんです。僕のことを知らない人からすれば、僕なんかこの世に存在しないのと同じなんです。
だから知ること以外の欲求から解放されるともう別に、それほど生きることに執着しなくなる。ような気がしているというか、実際そうなんじゃないかって思ってます。
それでも尚生きていたいと思えるのは誰かを愛しているから
それでも生きていくわけですね、人は。僕は。
僕は今25歳なんですけど、あと何年生きるんでしょうね。
知る為に生きるとは言いましたが、知れば知るほど知りたくなるんですよね。だから終わりがないんです。一生もっと知ろうとして、そうして生きていくんです。
全てを知り得ないと知っていたって知りたいんです。知らない方が良いことがあると知っていても知りたいんです。何もかも知りたいんです。
それでいてもっと欲を言えば、人を愛していたいんですね。
愛ってなんなのか。それはまた別の機会に話すとして、惰性から目を覚ましても尚、生きていたいと思うのは誰かを愛しているからですよね。
人を愛していなければ人生なんかやってられませんね。
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