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今回はこのような方に向けた記事になります。
【文系なら知っておけ】言語の限界が思考の限界

ウィトゲンシュタインにおいて言語の限界は,思考の限界を意味する。
桃山学院大学キリスト教論集 第50号
ウィトゲンシュタイン
これはもはや有名になりすぎてことわざのように言葉だけが一人歩きしていますが、「言語の限界は思考の限界を意味する」というのは言い得て妙です。
現在ではこれはよく言語学界隈で囁かれています。しかしこの言葉の出所が哲学者のヴィトゲンシュタインだったということは意外と知られていません。
言葉を知るごとに思うこと
THE・文系の僕が、言葉を知るごとに思うことは、僕らは言葉を知るごとに世界を狭めている可能性もあるということです。
簡単にいうと、言葉を知ることは素晴らしいことです。でも言葉を知っても脳の使い方を知らなければ、僕らは実態のない”言葉”という抽象概念もしくはただの観念に支配されるだけの生き物になるということです。
言葉なんか知らなければこんな苦しい思いをせずにすんだ・・・
という状況は誰もが経験したことだと思います。
言語の限界が思考の限界であることは言うまでもなくTrueだとは思いますが、一方で、そのような心的不協和も生まれやすくなると考えています。
言葉は思考の道具であって、言葉に意味はない
僕は言葉には特に意味はなく、言葉というのは単に思考の道具だと思っています。もちろん人には基本的には感情が備わっていますから、感情表現の道具でもあるわけです。
言葉は非常に重要です。
ただ言葉を知っているだけで思考が全く出来ていない人間はあまりにも多い。行間を読めず、言葉を焼き回しするだけのエセインテリをよく見かけます。
なのでもっとも、僕らは思考をしなければいけません。ただ最も嘆かわしいことに、日本の教育システムは国民が思考できる人間になることを恐れています。理由は簡単で、国民が馬鹿であった方が国家を統治しやすいからです。
とはいえ、一部にはまともに思考力を養成できる人もいます。彼らにとって大切なことは、見える世界を広げることです。僕はついにそのことに気が付きました。
なので数学を勉強することにしたのです。
この現実世界は僕らの脳内で作られている

言語の限界が思考の限界。これは全くその通りですが、例えばこれをもっとマクロ的に考えると、脳の限界がこの世界の限界になり得るという結論にいたりました。
僕らは例えば日本には約1億の人間がいますが、見えている世界は1億通りあるわけです。その中でも言葉を知っている人間はより多くを思考し、思考力がある人ならそのためにもっと言葉を知っていこうとするわけです、これも立派な知的好奇心です。
が、もっともっと、もーーーーーーーーーーっと世界について思考したいと思った時に、道具が言葉だけでは不足しているように感ぜられてなりません。
つまり、数学が必要なんです。
僕らが見ている世界というのは、つまり僕らの脳が作り出している世界です。
今は言語(言葉)だけで作られている世界に、数式が加わったら世界はどのように見えるようになるんでしょうか。僕はそれが知りたい。
その好奇心に突き動かされて、ついに趣味として数学を学び始めることにしました。
人と宇宙の謎について
最近では前澤社長が宇宙に行くことになったり、イーロン・マスクがひたすらロケットを作り続けていて宇宙への関心がかなり高まっています。
で、宇宙の謎というのは僕ら人類の謎そのものでもあります。
人間という生物を解明しようものなら、宇宙の謎が解明されなければいけません。
僕は今更宇宙の謎を解明する学者になりたいとは思いませんが、それ系の論文を読んだ時に本質的にそれがつまりどういうことかを理解したいと思っています。
なので数学が必要です。物理が必要です。
僕はこの世界がなんなのか、自分がなんなのか。これらについて考えるために言葉も数学も勉強するのです。
自分の視野を広げるには旅以外に勉強という手もある

確かに多様な価値観や文化に触れることで自分の視野を広げることもできます。実際に僕も海外に住んでいましたから、移住以前に比べて自分の価値観がかなり変わっていることは自覚しています。
ただそれ以外にも価値観や、自分の視野を広げる方法ならいくらでもあります。
いくらでもとは言いましたが、勉強がそれに当たると考えています。
今まで知らなかったことを知った。じゃあ世界は違って見えるわけです。例えば、自動車教習所に行くまではただの棒とか看板ににしか見えていなかったあれらが、教習することにより”標識”に見えるようになりますね。
知らなかったことを知る。
つまり広義での勉強。これは自分が見ている世界を永遠に無限に広げてくれるわけです。勉強は最高です。まさか高校を1年で中退した僕が、その数年後に「勉強最高」とブログに綴っているとは自分でさえも予想できませんでした。でもこれは僕が実際に勉強をしてみて、その素晴らしさを知ったからこそです。
まあでも結局は全部、解釈論で終わるけどね
ここまで話しておいてなんですが、全部解釈論で終わるんです。
絶対と思われている法律でさえも、法学を学べばただの解釈論であったと気が付きます。小説なんて何を読む前から解釈論であることは分かっています。
なので数学や物理も解釈論にいきつくのだろうなとは予想しています。
だってこの世に絶対不変の事実なんてないですからね。あるとすれば、それこそ絶対不変が存在しないという事実だけです。
ま、とりあえず僕は中学数学をおさらいしてから高校物理をやります。
所詮は趣味なので、存分に楽しみたいと思います。
終わり。