自分らしさなんてクソくらえ【僕は、一生自分を許せずに生きていく】

人間
自分とはなんなんだろう?生きていることに意味があるのだろうか・・・
こんな人に読んでほしい
  • 幼少期から世界との隔たりを感じている
  • 自分を許せない
  • 自分がなんなのか分からない
  • 「我思う、ゆえに我あり」とは

今回はこのような方に向けた記事になります。

現代は1億総アイデンティティ喪失時代

自己同一性(アイデンティティ)、つまり自分が何者であるのかを認知している人間はこの世界に存在するでしょうか。僕の所感では、ほぼ全ての人がアイデンティティを喪失しているように思えます。

当然、その中には僕も含まれています。

そうしてその理由は以下のように仮定しています。

現代人がアイデンティティを喪失する理由

  • 思考のためではなく生産人になるための教育
  • 神に代わる神的存在の多様化(*対象の多様化)
  • 人間社会やそのルールの複雑化
  • 人間の抽象化/安易なカテゴライズ

「現代人がアイデンティティを喪失する理由」と書きましたが、現代人が十分にアイデンティティを育めない要因でもいいと思います。

それぞれをざっくり解説していきます。

01・思考のためではなく生産人になるための教育


最も嘆かわしい部分です。

少なくとも日本の教育の本質は、僕の感じるところによれば、「思考力を身に着けるため」ではなく「生産人になるため」の教育です。

例えば、小学生が無邪気に「1+1の答えが2になる理由は?」と聞いた場合、多くの教師は

「屁理屈はやめなさい。」

「大人を困らせるのはやめなさい。」

と言います。

ついでに、現代において公務員教師になるような人材は大半が馬鹿なので、もはや学校教育そのものに疑念を抱いています。馬鹿は馬鹿しか育てられません。

つまるところ、現代の学校教育は子供から好奇心を取り上げ、規格通りに物事を考え、規格通りの答えを出す子供の育成をしているある種の洗脳機関となっています。これは非常に残念なことです。

ただ学校教育ばかりを責められたものではありません。

02・神に代わる神的存在の多様化(*対象の多様化)


元々、日本は一神教の国ではないですから、これの何がどうなのかと思う方も多いはずです。

僕が言いたいのは、神ではなく「神的存在」があまりにも増えすぎたということです。まあコミュニティの多様化、社会表皮の流れが早い現代においては、何かが一世を風靡することなく、同時にいろいろなところで新しい神的存在が誕生しています。

これの何が問題なのかといえば、というかそもそも、日本というのは、村八分とかがあった国です。元々、日本人には「自己同一性」を育む能力が備わっていないのかもしれません。

常に自分以外の外的要素によって自分を定義してきた、これが日本人という種だという仮説を僕は持っています。多分昔どっかのブログかnoteか何かに同じことを書いています。

日本人は元々集合の中の自分、その集合における自分の存在意義から「自我」を定義していたのかもしれません。これについては精神分析や心理学の論文を読む必要があります。

残念ながら日本にはフロイトのような優秀な学者がいないので、僕が日本におけるフロイトになる可能性さえ秘めています。

03・人間社会やそのルールの複雑化


実際に人間社会のルールが複雑になったのかと言われると、特段複雑になったわけではないと思います。成文法は増えたと思いますが、逆にそれは社会をシンプルにしてくれたはずです。

ただもっと改良すべき余地はあります。

僕がもっと気にしているのは「安楽死の是非」です。これについてはこちらの記事»【倫理が死に、法律が生まれた】安楽死賛成派の僕がその是非を問うでも書いています。

じゃあ何が複雑になったのかといえば、要するに「思考できる人間」が極端に減ってしまったので、もはや政治家や権力者のやりたい放題の国になってしまった。或いは、今後もっとそうなるだろうなと容易に予想できるということです。

これは非常に複雑な問題です。

農民が立ち上がって革命を起こしたことのない日本で、一度でも独裁政権が誕生すれば、他国の侵略以外にそれが是正されることはまずあり得ません。よって、危険。

04・人間の抽象化/安易なカテゴライズ


これがいわゆる「自分らしさ」と言われるものです。

僕はこう思います。自分が語る自分らしさも他者が語る自分らしさも全部ゴミクズです。聞くに値しなければ、定義するにも値しません。理由は上述したように、この国における「自分らしさ」なんてものは、コミュニティ内の存在によって変わってしまうからです。

絶対不変の「自我」なんてものは、期待するだけ無駄なんです。

それを知ってか知らずか、人間というものは、とりわけ現代人というものは安易に人を抽象化/カテゴライズしたがりますよね。

例えば

「あなたについて教えてください」

という質問。

これほどまでに馬鹿げている質問は他にありません。いやありますが、これは比喩です。

こんな質問をしているあなたが語るあなた自身というのは、絶対不変の自我なんですか。それとも、相対的な自我なんですか。ということです。

大抵、自分らしさなんてその程度のものです。

「自分らしさ」なんて、自分の視野も行動範囲も思考も、自分の一切を全てを狭めるゴミ概念です。つまり自分らしさというのは、自分を不自由な身にする呪縛なんです。

あなたが自分を許せない理由とあなたが地球人ではない可能性

こんなことを感じたことありませんか?

なんか、俺/私って、この世と隔たってね?

僕は幼稚園児くらいの頃からずっと感じていました。

友達がいる/いないの話ではなくて、どんな人間と話をしてもどうも溶け合えていないというか、同じ次元にいる実感が一切沸かなかったんですよ。

自分だけ常に別次元というか、とにかくその場に自分がいるという実感がほぼなかった。

それは今でも割と同じで、常にこの世界と自分が住む次元に隔たりを感じているというか、どうも全てが嘘くさく見えるというか、真実味に欠けているというのか。

筆舌に尽くし難い妙な感覚をこの世界に対して抱いています。

同じ人、絶対いますよね。孤独ですよね。

結論として、地球に紛れ込んでいる宇宙人である可能性も捨てきれないと最近思っています。あ、僕やばい薬とかやってないので心配しないでください。

あとパニック障害とは言われましたが、それ以外のパーソナリティ障害とは言われてないので大丈夫です。

自分を許せないむず痒さの原因は、地球アレルギーかも


そういえば、自分を許せないということについて僕はこの10年近く考えていますが、数年前にこんな曲に出会いました。以下、その曲の歌詞。

僕は人間じゃないんです ほんとにごめんなさい
そっくりにできてるもんで よく間違われるのです

僕も人間でいいんですか ?ねぇ誰か答えてよ
見よう見まねで生きてる 僕を許してくれますか

棒人間/RADWIMPS

この曲を聞いた時に、野田洋次郎も地球アレルギーを患っているのかもしれないと一瞬でファンになりました。

つまるところ、そういうことです。

どうも人間として生まれてしまったから人間として生きてはいるものの、人間と溶け合えないし、この世界との隔たりをずっと感じているんです。


自分を許せないのも、やはり人間として生まれたのに、人間として初歩中の初歩を何ひとつとして出来ないからなんですよね。彼は天才だと思いました。

さて、ここまで読んできて最後に、自分自身の存在を証明してくれる名言をご紹介してこの記事を終わりにします。

我思う、ゆえに我あり

デカルトが言った

「我思う、ゆえに我あり」

おそらくはデカルトも今の僕のような悩みを1ミリくらいは感じていたのかな、と。そう思うとなんだか嬉しくなりますね。時空を超えて、同じ思想の人と巡り合える。だから読書って素晴らしいんですよ。

現代には少ない自分の理解者を簡単に探すことができる。

フロイトにしても、デカルトにしても。

上述したように「この世の全てが嘘くさい」と思っていても、そう思っている時点で自分がこの世界に存在している。そう思うことがあなたの存在証明ですよね。と彼は言っています。

でも僕の存在は証明してくれたけど、僕がなんなのかは彼は教えてはくれません。

少なくとも、共同体における自分の立場で「自分らしさ」を定義するような生き方はしたくない。でももしそれが人間として基本的な営みであるのなら、僕は人間として生まれたにもかかわらず、人間の生き方に馴染めない自分を一生許せずに生きていくでしょうね。

終わりです。