もし進化論が妥当だとするのなら、人は遺伝子の中から「人を愛する能力」を退化させるのではないかと思う。
もし進化論が妥当だとするなら、人は「別れ」を本能的に避けるようになるのではないかと思う。
理由は簡単で、「別れ」以上に苦しい出来事は一生涯のうちにないから。
別れを辛くさせるのは愛に他ならない。
なのになぜ人は人を愛し続けているのか。
もはや愛とは、喜びではなく、罰なのではないかとさえ思えてくる。

さて、ポエミーなのはここまでにして、なぜ人は人を愛してしまうのかというお話をしていきたいと思います。
結論として、僕には、人が人を愛する理由が分かりません。
多分、一生を費やしても分からないと思います。だからこそ、人はそれぞれが思う「愛」を語ることができている。
もし「愛」に概念があるのなら、それは「愛」ではないのかもしれません。

「愛」を認知した瞬間に「別れ」が近づいてくる

僕の感覚としては、他者への「愛」もしくは他者からの「愛」を認知した途端に「別れ」が近づいている気がしてしまうのです。
例えば、ワンナイトスタンドの女性は出会ってから翌朝別れるまでに、一度も「別れ」の存在を意識することがありません。
つまり、その女性が目の前から消えることに対して、何の違和感、畏怖、焦燥、恋しさのようなものを感じていないということです。
理由は簡単で、愛していないからです。「愛」がないので、「別れ」もない。
そもそも愛とはなんなのか
そもそも愛とは何なのか。
愛とは、特定の人間関係の中に自然とあるものなのか。それとも、誰かが見つけ出すことによって共有するものなのか。
例えば、「告白」を考えてみたいと思います。
告白は基本的に、「あなたのことが好きです」と告げることですが、これには何の意味があるのか僕には分からない。
あなたのことが好きだと告げることに何の意味があろうか?
欲しいのは、「あなた」からの愛であって、「わたし」が愛を与えることではない。そもそも、好きなのであって、だから付き合うとは、胡散臭い理屈ではないかと思う。
概念の所有、欲求の対象が欲しいだけのことを、交際と呼び、さも正しきセオリーに則っているというような顔をしてセックスに励んでいる愚民を見ると吐き気がする。
話がそれました。
愛とは、特定の人間関係の中に自然とあるものなのか。それとも、誰かが見つけ出すことによって共有するものなのか。
結論は、やはり分からない。
親というのは人類史上最も自己中心的な生き物である

生まれた時からそこにいて、親なしでは生きていけない人間を育成し、勝手に年老いて、自分より先に死ぬことを親不孝だと言う。
せめて、親なしでは生きられない人間を育成した人間の責任として、看取ってくれてもいいではなかろうかとも思うのだが、なぜか親はそれを嫌う。
おそらくは、愛のためだろう。
親は子を愛している。
子との別れを受け止めることが出来ないのだろう。
じゃあなぜ子は受け止めることができる?
親になるまでの20数年は、親に子供はいなかった。
しかし子供は生まれたその瞬間から親と共に生きてきた。
依存の度合いでいえば、子の親への依存の方が間違いなく大きいはずだ。
それを、先に死ぬのは親不孝だ、と。
親というのは、まったく要領を得ない人種だ。
そもそも最初の「愛」は親によって育まれるものか
僕は、愛する能力とは人に生まれつき備わっている能力ではないと思っています。人を愛したいという本能や、「何かしらの観念」を愛と誤認する能力はあったとしても、愛する能力はありません。
とすれば、人を「愛する能力」を育成するのは親であろう。
親への「愛」が肥大していき、それをコントロールする中で人は、他人を愛する術を身につけていく。
だとすれば、親の役務とは、子供が人を愛せる人間になるように育てることではないかと思う。
あるいは、「愛」が別れを辛くさせるという仮説に基づくのなら、人を愛さない能力を与えてもいいのかもしれない。
子供が別れによって苦しむ姿は、誰だってみたくない。
それを、親は子に愛されることを教え、愛することを教え、別れを最も辛いものにさせているのだ。
親以上に罪深い人間がいるだろうか。
愛を知って人を失う辛さを知ることよりも人を愛せない人生の方が辛い

僕はこうも考えている。
- 愛情
- 友情
これらは全て、自分が孤独ではないと勘違いさせるための観念なのではないか、と。要するに、なぜかはいったん置いといて、人は孤独を認めて生きていくことができない生き物らしい。
だからつまり、「愛」も「家族」も「友達」も全部勘違いさせるための架空の概念。人はそもそも孤独で、誰と一緒にいても、人は1人でしかなくて、それを紛わすために生まれたのが「愛」や「友情」なのではないか。
この辺に関しても、僕のインプットや、そもそも和久井1人の思考と知識量で結論が導き出せるほど簡単な問題ではないことは知っている。
でも考えてみたい。考えることこそ、至高の喜びだと思っている。
で、つまり「愛」を知ればこそ、「別れ」が辛くなるわけだが、愛を知らない人生はもっと悲惨、辛いものなのではないかという仮説もあるわけです。
少年犯罪の加害者は親に愛されていないケースが多い
1)非行少年における被虐待経験について(科学警察研究所)
<中略>
ア 少年による凶悪犯・粗暴犯の背景及び前兆に関する調査 この調査は、凶悪犯あるいは粗暴犯で検挙・補導された少年(中学1年生以上で触法少年を含む)729名と、その比較群として、凶悪犯及び粗暴犯以外の刑法犯で検挙・補導された少年(凶悪犯あるいは粗暴犯の非行歴をもつ者を除く)792名を分析対象とした(調査期間は平成14年8月~10月)。 家庭内の虐待の結果をまとめると、凶悪・粗暴犯群はその他刑法犯群と比べて、身体的暴力等の被害を、生育歴上のより早い時期に受けた者が多いことが明らかとなった。
イ 粗暴傾向の少年相談事例に関する調査 粗暴傾向で少年相談の対象となった274ケースを調査対象として、粗暴傾向の背景や前兆的行動の態様及び前兆的行動等に対する保護者や関係機関の対応等の実態を調査したもの(調査期間は平成14年12月~平成15年2月)。 被虐待経験については、全体のおおむね5~6ケースに1件の割合で、何らかの被虐待経験がみられる。虐待の種別をみると、全体でもっとも多いのは身体的虐待であり、次いで心理的虐待、ネグレクトの順で多かった。虐待者・虐待の時期・虐待の期間を、虐待の種別ごとにみると、身体的虐待では、小学生に相当する時期の虐待が、4割から5割程度と多く、期間は7割以上が1年以上、4割弱が3年以上となっている。ネグレクトについても、3年以上継続しているのが4割を超えるなど、長期に及ぶものがかなり多かった。また、心理的虐待の時期は16歳未満のケースが75%と多く、期間では、1年以上で8割以上、3年以上だけでも5割に達しており、かなり長期間継続しているケースが多いことがわかる。
さらに、生育歴上早い時期から虐待を受けたケースや、虐待を受けた期間が長いケースにおいて、少年相談における働きかけの効果が相対的に低く、粗暴傾向の改善が困難であることが示された。
https://www8.cao.go.jp/youth/suisin/hikou/kenkyu/6.html
例えば、この記事【ネグレクトの解決策】育てることが辛いならいっそ静かに捨てればいいにも
愛したいのに愛し方が分からないんです
というコメントがきていました。
愛を受けていない人間は、人を愛することも出来ない。
人を愛することも出来ないということは、別れを辛いとも感じないのではないだろうか。一見すると、都合が良さそうだが、本来愛すべきだと本能が叫んでいるのに、心や体がそれに反発するように、愛することを放棄してしまう。
もしかすると、愛する人を失う辛さより、愛する人を愛せない辛さの方が人生にとっては有害この上ないのかもしれない。
であれば、愛すべき人を正しく愛し、正しく対象を喪失するプロセスを経験することは、人間にとって必要なことなのか。
しかしそれがなぜ必要なのか。
僕には分からない。
でも分からないけど、最後にこれだけは明確に、絶対に言えることがある。
別れがくることを知っていても、僕は何度でも愛する人には会いたい。
愛する人との別れが、胸をえぐるほどに辛いものだと想像がつくけれども、僕は何度でも会いたい。
結局、愛が何かは分からないけど、愛は罰ではない。愛は愛であり、もしかすると、愛を罰とすることは罪なのかもしれない。
いや、もしかしたらやはり、愛は罰の別称なのかもしれない。
だって、別れを辛くさせるとわかっているのに離れられなくさせるのだから。
新しいやん?