
こんにちは、和久井港(@misanwakui)です。
今回は、
生きてる意味がない。と考えることに意味がない。
和久井の仮説
というお話をしていきたいと思います。
あらかじめ、「求めよ、さらば与えられん」について言及しておきますと僕は無宗教で、特に聖書から何かを引用したりは基本的にしません。ただ便宜上、この言葉を使っているだけです。
宗教に関するお話ではないです。僕が個人的に考えていることです。
行動の動機がネガティブなものだと、どれだけ行動しても幸せにはなれない。
補償行為といいますが、自分のコンプレックスや弱点を補うことが行動の目的になると幸せはやってきません。
そうではなく、今持っているものを数え、幸せになるには十分であることを認識した上で、更なる幸せのために行動するべきだと、僕は考えています。当記事が解決するお悩み
生きてる意味がないと考えてしまう人の特徴

まずはどういったタイプの人が「自分は生きている意味がない」と考えてしまうのか。というか、そもそも生きてる意味がないと考えることが悪いことなのか良いことなのかの是非は、次に考えるとします。
まずは分類したいと思います。
- 暇すぎる人
- 主体性に欠ける人
- 欲張りな人
恐らく、「生きてる意味がない」と考える人はこのどれかに当てはまるのではないかと考えています。結構抽象度が高いので、以下で具体的にどういった人なのかを例などを出して話します。
01・暇すぎる人
暇すぎる人はどうしても要らぬことを考えがちです。
例えば、考えることが趣味で常にあらゆることを考えて結論を導き出して論文を書いたりブログを書いている、というなら話は別です。
暇すぎる状態が常習化すると、その状態に快感を感じるようになります。そして人間は変化を嫌う生き物ですから、暇すぎる状態でいるために活力を失っていきます。
活力を失うと、生活にハリを感じなくなります。常にどろっとじめっとした梅雨のような気分がずーっと続きます。その結果、思考が良からぬ方向に進んでいき、「生きてる意味」について無意味に考え出すのです。
02・主体性に欠ける人
自分の人生を自分で決めていない人も要らぬことを考えがちです。
人は主導権を失った環境に居続けた場合、(1)その環境に順応するか、(2)順応できずに心を病むかの2択しかないと考えています。
自分に主導権がない環境に順応する人は、同時に思考能力が減退していき、論理的に物事を処理できなくなります。この場合も不要に「生きてる意味」などを考えるようになります。
まずは状況を冷静に把握できなくなり、その上で、自分が主導権を握れる環境を作る、もしくは移動することを考える以前に「生きてる意味」を考え始めてしまいます。これは非常に危ない。自殺するサラリーマンなどはこのパターンが多い気がします。
順応できない人はうつ病を発症するので、生きてる意味がないと病的に考えるようになります。
03・欲張りな人
ここでは、絶対的な幸せの尺度を持たない人のことを欲張りな人と呼びます。つまり常に相対的に幸福を測る人も「生きてる意味」を考えがちです。
あの人はVUITTONのカバンを持っている
あの人はBVLGARIの財布を
あの人は身長が高い
あの人は肌が綺麗で
あの人は彼氏がイケメンで
相対的にしか物事を測れない人のエンディングは不幸の一択です。なぜか。それは上を見たらキリがないからです。
資産で考えれば、ビルゲイツかジェフベゾスが相手でなければ自分が惨めになった気分になりますし、容姿で考えれば、レオナルド・ディカプリオとか、その辺が相手でなければ自分が惨めになった気分になるはずです。
つまり、尺度が相対的である。欲張りである人間は、そういった経緯で「生きてる意味」について悲観的に考えるようになります。
「生きてる意味」を考えることは悪いことなのか

生きてる意味を考えた結果、何か仮説を立てることが出来るのなら考える価値はると思います。
例えば、
僕が生きている意味は、家族を幸せにすることだ。
という仮説を立てて、どうすれば家族を幸せに出来るのかを考え実行する。
これなら考える意味はあると思います。
しかしながら、「生きてる意味がない」と考えた結果生まれる物がネガティブな結論または仮説なら考える意味がないと思います。
生きてる意味 = 存在価値の有無
前提が生きてる意味あり/なし、であることがまず「ん?」と思わざるを得ません。
それってそもそも僕らが個人的に考えて結論を出せるものなのかな、と。
つまり、生きてる意味って何を問うているのかというと、自分の存在価値だと思うんですよね。
自分の存在価値を自分で決めることって出来るのかなと思ってます。例えばなんですが、SONYのワイヤレスイヤホンが存在する価値ってSONYが決めることなのかな、と。
それって、消費者が決めることだと思うんですよ。
なので、自分で自分は生きてる意味があるのかと考えることって、思考のオナニーでしかない。
そう思います。
「生きてる意味がないと考えることに意味がない」とは



「生きてる意味がない」と考えることに意味がないと僕は考えています。
要するに、生きてる意味がないと考えてしまう人には圧倒的に足りてないものが3つあります。
それが
- 心の充足
- 自己と他者の境界線
- 心理的盲点の認知
です。
哲学というよりはどちらかというと心理学よりのアプローチにはなるのですが、生きてる意味がないと考える人には上記3点が足りていません。
ざっくりと解説します。
01・心の充足
これはもう世間体や常識、普通という観念を差し置いて、
あなたの好きなことはなんですか?寝る時間を惜しんでまでやりたいことってありますか?
ということです。
もしあるのであればそれをやってください。
ないなら探してください。
人生は大方33%ずつに分けられると思います。仕事、睡眠、そのほか。
仕事でもそのほかでもいいですから、その自分が大好きなことをしてください。生きてる意味がないなんて発想には至りません。
02・自己と他者の境界線
自分と他人は、同じ人間ではあっても別の生き物だという認識をした方が良いです。自分と他人は完全に別もの。
なので、他人の問題は他人の問題。自分の問題だけを考えればいいのです。
あなたが会社を辞めたら上司や同僚が困る?
それはあなたには関係ありません。困るのは上司や同僚であって、あなたは辞めることで幸せを手にすればいいのです。
無責任でしょうか。薄情でしょうか。
例えば結婚。あなたが結婚する相手のことを、あなた以外の誰かが好きかもしれません。それでもあなたは自分の幸せのために結婚しますよね。
何か違いはありますか?
ありません。
03・心理的盲点の認知
心理的盲点をスコトーマと言います。
要するに、自分と他人の見えている世界は全くの別物だということです。
車好きの人にとっては街ゆく車は、マツダのデミオであり、ホンダのステップワゴンであり、トヨタのクラウン、ベンツのEクラスですが、車に興味のない人にとっては車は車です。
野球に興味のない人からすれば、坂本勇人と握手券を拾っても何も嬉しくありませんし、坂本勇人を目の前にしても何も思いません。
それくらい、人が見えている世界は違います。
「生きてる意味がない」と考えてしまう人は、自分にないものを数えてしまいがちです。そうではなく、自分が持っているものを数えるようにしてみてください。
実は、あなたは幸せになるために必要なものはもう全て持っているかもしれません。
求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん。

待っていても誰もあなたを幸せにはしてくれません。
あなたが思考し、行動し、求めない限りは、誰も何もあなたには与えません。
求めよ、さらば与えられん。
これは元々、新約聖書に書いてある言葉ですが、ここではキリスト的な意味とは全く別の意味で使います。
幸せになるには、今幸せであること
求めるのもいいです。
叩くのもいいです。
確かに、能動的に主体的に行動しなければやはり幸せもチャンスも巡ってはきませんから。
でもその行動の動機がネガティブなものだと、どれだけ行動しても幸せにはなれないと考えます。
補償行為といいますが、自分のコンプレックスや弱点を補うことが行動の目的になると幸せはやってきません。
そうではなく、今持っているものを数え、幸せになるには十分であることを認識した上で、更なる幸せのために行動するべきだと、僕は考えています。

まとめるのが非常に難しかったので、もしかしたらあとで書き直すかもしれないですし、分かりにくかったら申し訳ないです。
出来るだけコンパクトにまとめたかったのですが、間延びしてしまったかもしれません。
とりあえず今回はここまでで。また次回。