ふとグルーヴとは何か。気になって色々調べていました。
僕も「調べる」は普通のググるとは少し違っています。まずはザッピングをして大まかな部分を理解し、その後、その根拠やより深い部分を調べ始めます。
過去の自分に感謝することが出来るすれば、自分はこのググる能力を何よりも早い段階で身につけてくれたことを感謝します。
で、結論として、グルーヴとは何か。
僕はそれを「個性」と定義しました。
音楽好きな人や詳しい人からすると、だいぶ飛躍した意訳だな。と思われるかもしれないので解説します。
例えば4分の4拍子を10人の人に叩かせたとします。マクロで見ると寸分の狂いもないこの4分の4拍子が、ミクロレベルで見ると少しずつずれていることが分かります。つまり、それぞれの息遣い、体の使い方、これらで、少しずつずれが生じているんです。
この「ズレ」こそがグルーヴだと僕は考えています。だから気持ちよくない、気持ち良いグルーヴが存在するわけで、しかもこの「ズレ」は誰しもが持っていて、だけど誰もが違う。
これって、一般的に言われる「個性」ってやつじゃないですか?
だから僕は「グルーヴ」を「個性」と定義しました。
それで今回のテーマは、「教育にまだ出来ることはあるかい」ということです。つまりこの「個性」を尊重し、伸ばすという目的に対して教育は有効なのかについて考えたのでシェアします。
「個性」とは誰かになろうとすることではない
僕が物心ついた頃にはすでに「個性」と「個性的」が違う意味で使われていました。「個性」が先天性のものであれば、「個性的」とは後天的に身につけたセンスのようなもの、という認識が僕にはあります。
ではなぜ人は「個性的」であることより、あくまで「個性」を尊重し、伸ばすことを大切だと声高に叫んでいるのか。
そこにはある種の、息苦しさへの反発のようなものを感じます。
現代は息苦しい時代なのか
僕は平成7年生まれですから、それ以前のことについても、物心がついた平成20年とからへんまでのことには詳しくありません。つい最近でいえば、息苦しい時代だともいえます。
しかし同時に、かなり生きやすい時代であるとも思います。
この辺りは、僕のYouTubeでお話しているのでぜひそちらもご覧ください。
この動画でも言っていますが、自分が何者であるかを若いうちから認識、あるいは、発信している人にとって現代は非常に生きやすい時代です。
というのも、息苦しさとは裏腹にここまで多様化が認められている時代も結構日本では珍しいと考えているからです。
一方で、自分自身を見つけられなかった人。
彼らからすると、息苦しい時代です。人は何かしらのコミュニティに帰属することを好みます。集団で生活していたわけですから、ある種本能ともいえる性格なのかもしれません。
ただ自分がどこに帰属すべきなのか、どこに帰属しているのか。価値観やコミュニティが細分化している現代では分かりづらいというのが真実ではないかと僕は考えています。
そこで人々は、つまり、自分自身を見つけられていない(アイディンティ喪失)人は、個性を尊重する世の中を求めるようになります。
どこにも帰属していない自分の居場所は!
なぜ方向性を決めなければいけないんだ!
その場その場で流されて、なんとなく生きることはダメなのか!
「個性」を尊重とか、伸ばすとかいう人からは、そのような悲痛を感じるのです。というのも、15歳頃から自分でこれがしたい。自分はこうなると決めてひたすら行動してきた自分にとって、個性を尊重とか、伸ばすとかというのはどうでもいい話だからです。
よく「個性的な人生を送ってるね。」とは言われますが、別にそれが個性的だろうが無個性だろうがどうでもいいことです。僕は自分の正しいと思うことをやっているだけです。
ということで、個性について熱く何かを求める人というのはそもそも自我を形成できていない場合があると考えています。
「個性的でありたい」と思った瞬間個性は死ぬ
また難しいところですが、個性的でありたい!と思った瞬間個性は死ぬのではないかと考えています。
誰の言葉か忘れましたが、「法律が生まれて倫理が死んだ」みたいなことを言っていた人がいたような気がします。もしかしたら過去の僕の名言かもしれませんが、とにかくこれに近しいものを感じます。
個性というのは、つまりグルーヴなんです。要するに、息遣い、体の使い方。別角度から見ればそれは、脳の働きとも言えるでしょう。
だから意図せず人は個性に溢れている存在であるということですが、個性的であろうと思った瞬間、人は誰かになろうとしている可能性が非常に高いです。
誰かになろうとするわけですから、自分の個性というのは死ぬわけです。
もちろん偉大な芸術家も最初は模写から始めました。そしてその後、オリジナリティを追求してピカソになるわけですが、オリジナリティを追求せずに、他人像を自分に投影させたまま死んでいく人が多いです。
ということで、僕は「個性」とは誰かになろうとすることではないと結論づけています。
では「個性」を伸ばす教育とはなんなのか
僕は考えました。
「普通」や「一般」をいかに、それらは所詮普通や一般であってあなたに適応されることではないと伝えるか。それが教育に出来ることなのではないか、と。
つまり、日本の教育は(※他国の教育を受けたことがないので)普通や一般というものを非常に重視して説いているように僕は感じるわけです。
言い方を変えるなら、「常識」です。それがいくら変であっても、変ではなく合理的だったとしても、大体のことは「常識だから」で済まされるケースが非常に多いです。
それは、今いるフィリピンでも同じことが言えます。それが文化だからとか、それが普通だから。というような論調はどこの国にいてもおそらく同じです。
しかし僕が考えているのは、「いかにしてアブノーマルを認める人間を育成するか」これが大切なのではないかということです。
人間なんて全員アブノーマルなんですよ、他人からすれば。その他人同士が集合として生きるからにはルールが必要なわけです。
ただルールはルールですから。規格であり、人格を縛り付けるものではありません。
憲法を、国民を統制するものと勘違いしている人が多いですが、あれは国民を守るための法なんです。伊藤真さんの本で以前読みました。
便宜のためのルールが人を縛り付けるというのは、多分人間社会にしか起きない珍現象なんでしょうね。
障害やマイノリティについて
障害なども「個性」に含まれるのかというと、それは含まれると思います。
それ以上でも以下でもありません。ここでいう障害というと、外見的なものが多く想像されると思います。ただ障害は内面的なものもたくさんあります。
僕は24年間で、AHDHとか発達障害とかと何度となく言われてきました。
まあ自分のことなのでそれを個性だというのは憚られますが、少なくとも僕という人間を作る要素であることは確かです。
結論:教育に出来ることはまだあるかい?答えは、ある。
上述していますが、個性を尊重し伸ばす教育で大切なのは、ルールをルールとして取り扱うことです。
あと、これは大人の責任ですが、例えば職場なら上司の責任ですが、言語化することは非常に大切ですよ。
常識だからこれに従いなさいって、これは何も説明にもなってません。
納得感を得られないまま、感というか、納得しないまま大人になった人々がまた常識に盲目的にしたがっているわけです。
そう考えると、バカがあまりにも多いと思えてきませんか?
誰がどんなつもりで決めたのかもわからない常識に未だに縛られて一生を追えるわけですからね。まあ、個人が決めたり策定したものではなく、慣習として残っているものだとは思いますが。
もう令和ですよ。
この辺で、常識と距離を置いて生きてみてもいいんじゃないでしょうか。あるいは、盲目的に信じていたけど不確かなものに挑んでみてもいいのではないでしょうか。
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